レイシズムに反対するということはやはり自分の中にあるレイシズムにも対抗していくことで、自分の中にあるレイシズム(や、総合的な「異なるもの」への恐怖および歪んだ優越感と、さらに背中合わせの媚びへつらいなど)をどうにかする、したいと思う=戦おうとする意志を持つことにつながる。自分は日本人の両親から生まれた日本人として日本に住んでいて、ある程度以上の水準の家庭に生まれて結構平和に生きてきたから、ある時期まで世界はなんだか上手く行っていて、人々は大体平和を享受しているように見えていたし、政治だのなんだのとか差別云々という「真面目なこと」を考えなくても全然大丈夫、だって平和だし楽しいし。どこか遠くの世界は大変らしいけどね、という感覚を、無意識のうちに21歳くらいまで維持し続けていた。周りの友達とも家族とも「そういう話」は全然しなかったし、ある程度そういう話に興味がある子と話した時は無関心不勉強ゆえに何も話せなくなって「お前思想強いな〜(笑)」などと、なんらかの後ろめたさを隠すために茶化したりした。今考えると本当に醜悪な行いだったと思う。K君ごめん。
「そういう話」が自分の生活と実は切り離せないこと、この世界が全然上手く行っていないこと、そして「中立」を気取る=冷静に状況を見れているアタクシを演出して悦に浸るとき、人はすでに抑圧者側の立場に立つことになるということがわかってきた途端にもう、「俺には関係がないから」とも言えないし、政治の話とかキモいからしたくないとも言えなくなった。そもそも社会に生きるということは非常に大変なことで、政治から距離をとることは実はそんなにできない。という点がなんだか隠蔽されて漂白されてきたせいでノンポリ万歳、政治活動なんてダサいしみんなでおちゃらけていようぜヘイ、みたいな感覚が蔓延してきて久しいのだと思う。「政治から距離を取る自由」もあるとは思うが、その自由を取った人が取らなかった人(戦うことを選んだ人)に対して何かいうときは自分の異端性みたいなものを意識しないといけないとは思う。政治的であることを避けるということは目の前にあるものをないと言っているのと等しい。実は政治的である(政治というものがこの世を動かしていることを認め、そこに関して自分なりの考えと行動を大なり小なり持とうとすること)ことは、社会においては呼吸することと等しいくらいに当然のことであるけれど、そんな当たり前のことがずっと隠蔽されている。目を背けることの方がイケてるとされている。ある程度大きな目で日本を見れば、今でもその考えは優勢だろう。
一方で、そうした社会が産んだモンスターである安倍政権のあまりの暴挙は市井の人々の姿勢をだんだんと変え、公文書改竄や消費税増税では動かなかった人々もCOVID-19という非常にわかりやすい「平等な損害」を前にして全く信頼できない政府にようやく怒り始めた(ように見える)。ここ最近のSNSをみていると、自分が観測してきたごく短い期間の中では一番人々が政治的になることにポジティブになっているように見える(もちろん例外もいっぱいあるだろうが)。そうした中でハッシュタグアクティビズムなるものが活況を帯び、この度ジョージ・フロイド氏が殺害された事件をきっかけにアメリカに広がった一連の状況に対するSNSを用いたアクションはその流れもあってこれまでにないくらいの爆発を見せている。近いところで言えば自分の友人たちも、これまで見たことないくらいにハッシュタグをつけた黒い画像を投稿している。
こうした状況の中で自分はどう振る舞えばいいのか。他の人がどうとかでは全然ない。自分の考えていることはどうなのか、と考えたらそこに収まるくらいの情報量ではないし、押し込める必要はないどころか押し込めることで溢れるものがあることの方が問題だと考えた。長くなっても、出来る限り書きたいことは全部書いた方がいい。
①自分はレイシズムには絶対立ち向かわないといけないと考えている。同じ世界で生きている人々を実際に脅かしているレイシズムに対しても、冒頭に書いた通り自分の心にあるものに対しても。この姿勢は善いものだと思うし、善くあろうとすることは絶対に大事だと思う。反レイシズムは悦楽に浸るレイシストを告発するが、弱者をそれ以上貶めるものでは全くない。人を内面でなく外面で、しかも個を見ず十把一絡げに「全体」を判断する感覚と、それにより生まれてしまった強者弱者という偽りの構造には立ち向かう必要がある。国外のことであろうと当然他人事ではない。
②こうした気持ちを持つことは大事で、それが各々のできる範囲で表出することも同じく重要だ。「政治的発言や運動を行う人は徹頭徹尾真面目に行動を遂行しなくてはならないし全ての関連事象に強く興味を払う必要がある。中途半端な姿勢は許されない」という考え方が様々な方向から寄せられることにより、人々が政治的になることを恐れる向きはきっとあると思う。「できる範囲で」の範囲を見定めつつ、各々のストレスがかかりすぎない形で思考や行動を行う方がいいと思う。
③海外のレイシズムを考えるにあたって、すでに日本に存在している様々な差別、排外主義を考える必要が大いにある。海外にはある、日本にはない。みたいなものはとんでもない間違いで、今もそこら中の書店の棚を賑わすヘイトスピーチ本やうちのすぐ近くにある朝鮮学校への人種を理由とした抑圧について考えるようにしないといけない(今回のことがきっかけになることはすごくいいことだと思う。ずっとそのことについて考えてきた人や当事者にとっては無論むかつく話だと思うが、それでもずっと考えないより遥かに遥かにマシだろう)。全くよく知らないがアイヌや琉球の問題についても知らないままじゃいられない。これに関しては自分は完全に無知だから、態度を改めて勉強する。日本において自分は完全に特権階級で、自分の意思と関係なく抑圧を発生させている。それに対して意識的でないことはもはや罪で、「いや俺何もしてないし!」って、いや、そうなんだけど、でも何もしてないだけで事は起きるし何もしてないことが事を起こすこともある。そういう世界に生きている。ハッピーでラッキーでふわふわで幸せなだけの世界じゃ全然ないことはもはやどうしようもなくて、その自覚の上で幸せを目指さないといけない。ここはそういう世界だから。反出生主義が話題になる理由も、わかる。
④自分はソウル、ファンクミュージックを中心にアフリカ系アメリカ人の作ってきた文化を非常に尊敬しているし、大好きだと思っている。だから今回の状況にも大きな興味を持っているという側面はあるが、しかし重要なのは「彼らが優れた文化を作ってきた人々であるにもかかわらずこんなひどい目に遭い続けているのはおかしい」という考え方を1ミリも持たないこと、だと思う。「差別」に反対するならば、彼らがどんな人なのかは一旦横において、それは関係なく彼らが「人間」であるからこそ差別を受けるのはおかしいと考えなくてはいけない。
前にSNSか何かで見た物言いで「LGBTの人を差別しないでください。私の上司はゲイですが、本当に素晴らしい人ですし尊敬してます。そういう人たちもいるんです」みたいなものがあった。おそらく多くの人はこの言葉が孕むおかしさにすぐ気づくはずだが、この発言者はすでに上司氏がLGBTであるという点で差別をしており、しかし彼が(この場合は人格面での)能力において優れているから色眼鏡で見ることをやめることにした、ということをおそらく無意識のうちに断言している。いうまでもないことだとは思うが、そういうことじゃないのだ。そもそもその人のセクシュアリティなんてものはその人がどういう人間であるかということに一切関係はない。
もちろん科学的統計調査を取ったら「こういう特徴のある人たちにはこういう傾向がある」という話は見えてくるのかもしれないが、それはあくまでも「傾向」に過ぎない。という点はすごく重要だと思う。ある人種やセクシュアリティの人に特有のある傾向というものがあったとして、それを鵜呑みにして「その人がどういう人間であるのかということ」を判断する際に適用するのは、間違っていると断言しないといけない。その人が実際にロクでもない人間なのだとしたら、いくらでも軽蔑すればいい。しかしその判断に何か別の、その人が望んで手に入れたわけではない情報(人種性別などに限らず、容姿や体型もこれに当てはまると思う)を影響させてはいけない。その行いは短絡的であるし、理知的かどうかで言えば全くそうではない。結局そうしたラベリング、一括りにすることは実際には存在しない「わかりやすさ」を生み出して世界を面白おかしく語ることを可能にするだけで、それ以外の効果はない。実際にその人のありようをフラットな目で判断することなく、虚しいフレームやバイアスを当てはめることの気持ちよさや楽しさは絶対存在するのだが(なんてったってそういう「軽さ」があれば話は弾むから)、その愉悦には対抗していかないといけない、と強く思う。「分類は理解ではない」。
⑤「声を上げることは許しても、暴動や略奪は許したくない」という意見について、これはやはり自分たちが圧倒的安全圏にいることを大いに考慮に入れて判断していかないといけない。すごく難しい問題だと思うし、自分も暴動のニュースを見たときは脊髄反射的にその正当性を疑った。しかし実際の現場に自分や自分の家族、友人たちがいたら、その立場だったら、同じことが言えるのか。そう考えてみるとおすまし顔で「暴力反対!」などとはとても言えなくなり、これが複雑な問題であることがわかる。
https://jfissures.wordpress.com/2014/12/24/indefenseoflooting/
ヴィッキー・オスターワイル氏の「略奪の擁護論」を翻訳したこの記事は非常に参考になった。もちろんこれを鵜呑みにしてもいけないのだろうが(実際に当事者の立場で略奪や暴力反対を訴える人もいる。どんな人々が実際に略奪行為を行なっているのかについても憶測的な情報が飛び交っていて早計な判断はできない)、しかし「公民権運動は、まったく非暴力というわけではなかった」という個人的には驚くべき事実をきっかけに、非・暴力と非・非暴力=暴動という脅威が混在こそがようやくJ.F.ケネディ大統領を公民権法設置へと動かしたという話はとても肉感がある。また奴隷制の歴史から、白と黒という肌の色の違いはそのまま所有する者、される者を分け、それは今でも社会的地位や所有の寡多の違いに如実に残っている。正直ここも自分は不勉強で、その現実について目の当たりにしたことがないため実感がないが、しかしこれを起点に「それが存在すること」への解像度みたいなものをグッと上げたいと思う。
この文章は2014年夏に起きた今回同様の殺人事件(そんなものがあったこと、自分は全く知らなかった)とそれに伴う暴動、それに対するバッシング…という今回の状況と非常に一致したものが起きていた際に書かれたものだ。
「(「善良なプロテスター」から「悪い暴徒」を切り分けようとする向きに対して)もっとも、もしその人々が器物破損でもしなければ、メディアはこの問題自体に関心を払わなかったかもしれないのにも関わらず、である。ファーガソン(ミズーリ州の都市)での抗議の2日目にコンビニ「クイックトリップ」で略奪し火をつけた人がいなかったら、ファーガソンは世界の注目の焦点になっていただろうか?その答えはわからないが、これまでアメリカ中で行われてきた警察の暴力に対する非暴力行動の数々がどこのマスメディアにも取り上げられなかったことを考えると、答えはノーかもしれない」
「有色人が店で略奪をするのは、かれらが時代を経て盗まれてきたもの —古代からつたわる文化、言語、そして今日の子ども達が外を歩くための基本的な安全の権利—を奪い返しているのだ」
「ここ数日間、あるインスタグラム・ユーザーがファーガソンのコンビニ「クイックトリップ」で収めた人々による略奪の模様が広く共有されている。この動画にはユーザーによって「自分たちの街を自分で破壊してる奴ら、とか言われてるけど、 だいたい、この街に自分たちのものなんてひとつもない!」とコメントが添えられている。これは最も重要なことで、アメリカにあるほとんどの黒人街の商店は大型チェーン店とファストフード店で占められていて、その集中率は非黒人街よりもはるかに高い。一人当たりの平均年収は21000ドル(約250万円)で、そこから35%の白人人口を除くとさらに低い数字になるだろう。ファーガソンの一般市民にとって「自分たちのクイックトリップ」なんて言葉が存在しえるだろうか?それどころか、そもそもコンビニのチェーンや大手のファミレスが地域やコミュニティーの一部になんてなりえるだろうか?」
「ハナ・ブラックはツイッターでこうつぶやいている。「警察っていうのは、みんなが略奪をできなくするため、つまり、立派なものをタダで手に入れられないようにするために存在している。だから警察に対して抗議する時に略奪することになんでこんなに混乱するの人がいるのかわかんない。」立派なものを無償で手に入れることが不道徳だと信じる場合、そして現在の所有権の制度(白人至上主義であり、移住者による植民地主義である)が正しいと思える場合にのみ、略奪はいけない、などと道徳的なことをのべることができるだろう」
「近代のアメリカにおける警察力は、逃亡をはかる奴隷を監視するところ、つまり奴隷所有者の所有物がなくならないようにすることから進化したものである。言い換えるならば、アメリカの警察の歴史は、 黒人による脅威を暴力的に防ぐことで守られてきた白人の所有権の歴史である。警察の暴力に反対するデモで略奪が起きるとき、略奪者たちはデモの政治的機能を無視しているのではなく、警察の暴力というテーマから話をそらしているわけでもなく、いつもレイシストな記事を書く用意ができているマスメディアを煽っているわけではない。略奪者たちは、警察、私有権、そして白人至上主義という、問題の本質に真っすぐに向かっているのである」
自分のような安全圏にいる者には見えにくいことだが、そもそもアメリカにおける「平時」は透明化された有色人種への「略奪」によって成り立っていて、「道徳的」に「略奪はよくない!」と通り一辺倒のキレイな主張を繰り返すことは、こうした状況から大いに目を背けている。最近で言えばCOVID-19に伴い緊急事態宣言が出されたが、そもそもそんなことになる前から、世間が緊急でないとみなされている時から実は緊急事態に陥っている人は山のようにいて、それを知らない(ふりをしている)人たちが降って湧いた緊急を憂い、いつも存在している緊急はまたしても隠蔽される、という構図が出来上がっている。という話に近い。
繰り返しになるが当事者たちにとっても暴動と略奪をめぐる問題は全く簡単なテーマではなく、それぞれの解釈がある。他人事でないと感じながらもどうしようもなく外側にいる自分にとってまずできることは、こうした状況についてできるだけ多面的に考えようとすることだと思う。脊髄反射に陥らずに。
⑥「COVID-19によって起きたアジア人差別に対してダンマリであった/もしくは差別行為の当事者ですらあった可能性のある人々が今こういった活動をしているのに対して違和感がある。支持できない。お前らも同じ穴の狢だろうって思う」というような意見をインターネット上で目にした。これも無視できないポイントだろう。
こうした「感情」が生まれるのはとてもよくわかる。よく「日本人は自分たちが白人側だと勘違いしている」という話があるが、間違いなく日本人含むアジア人も黒人とはまた別の形で被差別階級にある。白人を頂点とするこの構造は間違いなく世界に蔓延していて、先日中国を発端として起こってしまったCOVID-19に反応する形で起こったアジア人差別に関してはやはり今回のジョージ・フロイド氏の件と同じ観点から怒りを感じる。そうした中で生まれた「アジア人の時には声を上げなかったくせに」的な言説ついて、いったん感情的にはわかる部分がある。その上で、落ち着いてその妥当性を考えていく必要がある。
まず、こうした発言をする人がどういう人なのか__という問題はありそうだ。その人は、アジア人差別が起きた時どのほど怒っていたのだろうか。その時から激怒していた人がこのような主張をするのはわかる。しかしそうでなければ、結局発言者本人はずっと安全圏からモノを言ってるだけになる。こうした言説を見て個人的に反省したのは、どうして中国人(とみなされたアジア人)たちがヨーロッパで卵を投げられた際にもっと怒れなかったのか、ということだった。やはりあの時は完全に他人事として見てしまっていた。今回の件では黒人層にシンパシーを感じるのに、あの時怒れなかった自分は完全に上に書いた通りの「自分はソウル、ファンクミュージックを中心にアフリカ系アメリカ人の作ってきた文化を非常に尊敬しているし、大好きだと思っている。だから今回の状況にも大きな興味を持っているという側面はあるが、しかし重要なのは「彼らが優れた文化を作ってきた人々であるにもかかわらずこんなひどい目に遭い続けているのはおかしい」という考え方を1ミリも持たないこと、だと思う」という点を全く実践できておらず、完全にこの唾棄すべき論調を自分も備えてしまっていた。強く反省している。たとえその人たちが普段どういうことをしていて、どんな人たちなのかということに興味がなかったとて、差別には反対しなければならない。
また、この件にはビリー・アイリッシュがSNS上で発言していたことが参考になる気がした。
https://ameblo.jp/taylorswiftholics/entry-12600682822.html
こちらのページに載っている和訳を参照させていただいたが、彼女による5/30の投稿は”blacklivesmatter”に対して「いやいや、”all lives matter”でしょう?もちろん彼らはの人権は大事だけど、まるで彼らだけが大事だなんていうような言い方は、ちょっとね…」と冷静さたっぷりに異議を唱える白人層に対する怒りに満ちている。
「もしあんたの友達が腕に切り傷をおったとしたら,「みんなの腕が大事だから」とか言ってそこにいる友達全員に絆創膏が配られるのを待つの?違う,あんたがしなきゃいけないのは,友達を助けること,だって,その友達は痛がってる,だって,その友達は血を出しているんだよ!」という言葉は極めて端的で、blacklivesmatterはwhite lives don’t matterなんてことは一言も言っておらず、的を射ない揚げ足取りみたいなものでしかない。
今回は”blacklivesmatter”で、今はそれを考える時間だ。それは間違いがなく、他のことが重要でないとは一言も言っていない。一方アジア人差別は歴然とした問題で、当然それについても自分たちは考えないといけない。黄色人種差別に対して我々はもっと怒るべきで、ある視点では特権階級でもあるけどある視点では被差別階級であるという、事態は本当に複雑で、そうした中で大事なのは「何か後ろめたい感覚を隠蔽することなく行動を起こしていくこと」である。「今回の件ではめちゃくちゃ怒るけど他の同様の差別にはダンマリ」が本当なのだとしたら、それは間違いなくダメな人権擁護派である。覚悟が要る。
https://newsphere.jp/national/20170420-1/
この記事に書かれているような、歴史的にアジア系移民が声を上げてこなかった(模範的移民、という言葉を初めて知った)ことで「順応」してきたという経緯も関係してきそうだ。人種関係なくそれぞれの当事者たちの中にも事情や忸怩たる思いがあったりするだろうし、とにかく外野から訳知り顔でどうこう言うのはまずかろうということだけはわかる。そもそも人は「分かり得ない他者の事情」とどう付き合っていくべきなのだろうか。それでも解ろうとしないといけない、と教条的に「素晴らしい対応」を考えるのはいくらかラクだけど、それには限界がある。そして限界を認めようとしない態度は、これまで何度も見られた左翼的なものの敗北に一役買ってきたと言えるだろう。
「俺は黒人から差別された経験がある。だから今回の状況は支持したくない」という人に対して、なんと言えば良いのだろう。間違いなく悪いスパイラルが発生しているのはわかる。どうにかした方がいい。でもその人に対してご高説を垂れるというのは違う(自分はまたしても安全圏からそれを振りかざすことになる)。この項目は無視してはいけないと思って書き始めたが、どんどん自信がなくなる。人と話さないといけない。
そういえば自分もキューバにいた時、道を歩いていたらキューバ人と思しき女の子数名に水を吹きかけられたのちものすごく睨まれたことがあった。ショックだったけど、キューバという特殊な国に部外者として割り込んでいる以上仕方ないとも思ってしまった。いや、仕方なくなかったのか?あの時怒れば良かったのか。そうでもない気がする。わからない。わかる必要はあるのか?ないかもしれない。大体、そんな簡単にわかってたまるものか。世界も人もそんなに単純ではない。
⑦ここからはハッシュタグ・アクティビズムおよびSNSの話になる。まず第一に、#blacklivesmatterを中心としたハッシュタグや黒い画像、そして数々の動画やメッセージがSNSというメディアに乗って世界に拡散したことによって、この問題の知名度は言うまでもなく確実に上がった。これは、良いことだと思う。これによって初めて問題を知った人、興味を持つようになった人、踏み込んで興味を持たないといけないと思うようになった人(自分も含む)、行動を起こす人、様々。旧来のメディアでは起こせない情報の爆発。いいことは起きている。間違いない。SNSは現場において連絡や情報共有のツールとして大いに役に立っていることだろうし、自分もアクションの当事者になって現場に出たらガンガン使うことになるかもしれない。非抑圧者が行動を行いやすくなるためのツールという側面は、 SNSの正の側面だ。
これから書くことは、今回の運動を否定するものでは全くない。運動そのものにはそんなに関係がなくて、2020年にそれが大規模な形で行われる上で避けることができなった宿命には大いに関わりがあることについての話だ。これは安全圏からこの運動に関心を持って関わろうとする一人として、最良の関わり方を考えようと考えたときに書かざるを得なかった文章だ。
自分は今回の運動に限らず最近特に加速している「SNSが社会運動のフィールドになる状況」に対して、「市民が新たな力を得た!」と歓迎する事は全くできないと感じている。そしてこれに対して無批判でいることは結果的に社会運動の(長期的な)失敗を招いてしまうのではないかと考えている。
何が怖いのか。SNSだ。そしてそれを「よき道具」として無邪気に使い、果てはそれ自体が公共圏とみなされ、民衆を情報取得/発信の面でエンパワーする「第五の権力装置」と考える無垢な進歩観だ。
最近、SNSで発語される言葉は、本当にその人の言葉なのだろうか?と考えるようになった。もちろん現実世界の会話ですら、自分の本当に言いたいことをうまく発話できているかは非常に怪しい。できている時もありそうだが、できていない時も多いだろう。心の中にあるものがこの世界に発語として出現するまでの過程には様々なフィルターがかかっていて、「本来の思考」みたいなものがそのままの形でズルンと出てくるのは難しい。それを踏まえた上で、「SNSに何かを書く」という行為は、リアルの世界で発語や会話を行う以上に多くのフィルターを通しているのではないかと考えている。SNSでの発言には、圧倒的にそのメディアの特徴が影響を及ぼす。ちょうどカメラを向けられた素人が「映っている自分」を気にしてなんだかいつもとは違う感じで喋ってしまう現象に似た、もっとラディカルなものが発言者を包むことになる。
SNSでの1対多的コミュニケーションは人と相対しているような錯覚を与えながら、実際には全くそんなことはない場所で発言を行わせる。他者と繋がっているような感覚を与えてはくれるが、本当に繋がっているのだろうか。いずれにせよ、リアルの場でのコミュニケーションとはだいぶ違う形でそれがなされるということは間違いないだろう。
また、リアクションボタンの存在も手伝って、SNSはかなり脊髄反射的なコミュニケーションを可能にする。あまりにも多すぎる情報がワッと襲ってくる。その情報はたいてい刺激的だ。シリアスでない遊び的な情報ならまだいいのだけど、SNSが人の生活に肉薄するならば、シリアスにならざるを得ない。なぜなら生活はシリアスだからだ。そんな情報たちの奔流に対して、深く思考して処理するより前に拡散、同意、発言ができてしまう。もともと「つぶやき」だったりするわけだし、これはSNSのデザイン的に避けられないものだと思うし本来なら長所になるはずだったと思う。今でももちろんそのスピード感が長所になっている場合もあろうが、しかし言うまでもなく逆も然り。よく考えるより前にタイプしたその発言はまたしても脊髄反射的に行われる拡散によって広がり、広がり、広がる。冷静になればそんなこと書かなくても良かったはずのことが「勢いによって」書かれることは常態化している(これは今回の運動の話ではなくて一般的な話である。為念)。
さらにはフィルターバブル、エコーチェンバー。見えている世界が全てのように見えるし、その世界を自分で恣意的にデザインすることができる上ツール側もそれを推奨してガンガン手伝ってくる。この危険性にまったく目をやらなかったとき、とんでもない気持ち良さが手に入るという点も凶悪。そりゃあ自分と同いような事を言う人たちばかりの世界は楽しい。楽しいように見える。だがそれは「世界」では全然ないわけで、しかしガイドラインにそんなことは書いてなかったりもする。
極め付けは匿名性。しかも、匿名じゃない人たちもいっぱいいる。混在している。これはよく考えたら、本当に異常なことだ。現実空間でフルフェイスのマスクを被った人たちとモロ出しの人たちが普通に交流している様子を考えてみてほしい。そういうことが公然と行われている。全く姿を晒さず完全なる安全圏からガンガン攻撃の矢を放てる人たちがいる。その攻撃もまた脊髄反射的で、本来何の力もないはずなのに、例の「拡散」がたまたま為されただけである種の力を持ってしまう。もしSNS参加者のうち全員が完全に匿名であったのならばそもそも言論的な力も持たなかったはずだけど、匿名でない人たちが進んで参加したことによってなまじ力を持ってしまった上、その力は増大するばかりだ。とてもじゃないがこんな場を「新しい公共圏」とみなすことは自分にはできない。狂った空間だ。繰り返しになるが、遊びの場としてはこの上なく楽しいものだと思う。自分もお世話になってきた。しかし機能を持ちすぎた。資本主義も大いに絡んできて「マーケット」にすらなってしまった。限りない混沌の世界がその危険性を自覚されることなく(してる人もいると思うけど、頑張ってもすぐそばから「熱」が襲ってきて、その自覚を溶かしていく)祭り上げられている。これはどう考えてもおかしいことだと思うし、おかしいと言わなければ気がしている。異常な場で練り上げられた言説はどうしようもなくその異常性を引きずってしまうことについて自覚しないといけない。
SNSは一言で言って「暴走教唆装置」であると考えている。全面的にではないがその側面は間違いなくあるし面積もデカい。これにより人は熱くなってしまう。熱くなることは基本的にはいいことだと思うが、問題は熱の質だ。悪い熱というものはあるし、それに焚き付けられるのは最悪だ。しかも集団でそれを起こす(繰り返しになるが今回の運動のことを言っているのではない。しかしこうした悪い熱に当てられて行動している人もいるとは思う。いつでもどこでもそういう人はいるし、自分もそうなってしまう時がよくあってとても良くない)。
だからSNSを使うのにはとても注意が必要だ、ということを言う人はこれまでにも相当数いただろう。でも状況は良くなっているようには全く見えない。この前もSNSに乗った悪意が人を殺した。見えないところで殺されてしまった人も沢山いるだろう。
今回のことで重要な点は、社会運動におけるSNSの有用性にも目を向けつつ同時にそのメディアの圧倒的な負の側面についても自覚することで、それはとても難しい。同時にこれは前述の通り、どうしようもなく安全圏にいるからできることでもあると思う。実際自分が渦中にいたら、そんなこと言ってられない。その時はきっと、有用性を利用すべくガンガン使うだろう。でもその時に機能する自分の中のストッパーを作っておく必要も絶対あって、それは今から作っておく必要がある。時間をかけて。
⑧ハッシュタグ・アクティビズムについて、「それが漏らすもの」という観点。
COVID-19による現実世界での公共空間の喪失をきっかけに「オンラインデモ」が主にTwitterをフィールドにして行われるようになって、#MeTooや#FreeHongKongなどに代表されるハッシュタグによる問題の拡散、共有という文化は新しいフェイズを見せているように見える。
ハッシュタグ・アクティビズムのいいところはその圧倒的な拡散力と可視化力だ。言うまでもなくアナログ媒体には出せない爆発力でもって世界の端から端までその問題が存在していることを共有し、可視化する。こんなにも多くの人たちがその当事者として辛い目に遭っていて、それに対する連帯をこんなにも多くの人たちが示している現実世界では物理的に集まれない量の人々が国や地域を超えて「集まる」ことができる。これが少数派、被抑圧者の立場から社会運動を起こすということにどれだけ寄与することか。当事者は自分たちだけではない、という連帯の輪はきっと本当に心強いし、たくさんの人が救われてきただろう。そして当然それを国際社会が目の当たりにすることになり、問題意識が共有されていく。こうした規模での動きはやはりインターネットのようなものがなければ創造不可だっただろう。
他方、もちろんこれは万能ではない。この世界において基本的に完璧な〇〇などはあり得ないから、ハッシュタグアクティビズムの不完全さを指摘して揚げ足を取ろうというわけではない。しかし、かなり意識的になる必要のある構造的欠陥がここにはある。 現実電脳関係なく、ある一つのテーマについて社会運動を起こすとなった場合、同じ問題を共有しているとは言っても個々人の中に様々あるそれぞれの事情や微細な考えの違いといったものを一旦大なり小なり捨象して運動に関わる、ということがどうしても必要になる。綿野恵太氏と千葉雅也氏の対談(https://book.asahi.com/jinbun/article/12898218)にこの話が出てくるが、「差別にたいして団結し闘おうと運動を起こすときには、多様なアイデンティティであれ、最低限の要素を共有していなければなりません。なんらかの同質性を設定せざるを得ない」という部分で語られているように、参加者それぞれはあるテーマ、今回だったら「アフリカ系アメリカ人への不当差別に反対する」という「最低限の要素」を共有するわけだが、ハッシュタグや画像は、これに賛同していることしか語ってくれない。いや、運動に寄与することを考える上ではそれで十分なのだが、しかしこれらを投稿するだけでは、そこに至るまでにあった個人の様々な考えそれは自分であればここまで書いてきたいろんなことにあたる(今数えたら1万字以上あって引いた)わけだが、そういうものを思い切り投げ捨てた上で、自分をものすごくシンプルなものに仕立て上げた上で運動に参加することになる。
何度でも言うが自分は社会運動、デモなどは非常に重要な行為だと思っていて、だからこそそれが持つ脆弱さにも向き合っていく必要があると思っている。この「自分の中の複雑なものを捨象しないといけない」問題はとんでもなく大きいものだと思うのだが、しかし人は集まらないといけない。ではどうすればいいのか?ということに関する自分なりの考えは、「自分の考えは、絶対他人のそれと完全に一致しない」「人と人とは完全に合一する形では分かり合えない」ということ、そもそもの限界のようなものを強く意識した上で、それでも集まること。周りの人たちが自分と同じ考えを持ってその場にいるという甘い幻想とはオサラバして、みんな共有しているものはある。しかしそれは極々一部に過ぎず、全体としては全然共有していない。細かい部分のズレはものすごくある。「みんなで集まって全体を形成している」のではなく、「個人が個人のまま集合している結果、集合体に見える」という全員が自立したクールな状態で、それでも集合すること。これは字面以上に難しいことだと思う。集団形成の快楽を否定しているからだ。同じ志を持っていると思しき人々で集まって、「同じだよね!」と確認し合う、或いは確認せずともそういう気になるということはそれだけで楽しさや気持ち良さがある。しかしそんなに「同じ」はないのだ。みんなそれぞれの立場で差別に反対してはいる。それだけでいいのだ。話したら友達になれるかもしれないし、参加者同士ガンガン話せばいい。しかし究極的に我々はとても孤独で、ぴったり他人と一致するなんてことはあり得ない。もし二人いたら、一人と一人がいる。それを思うことは想像以上に重要だと思う。そして、それでも人は仲良くやれる。そっちの方が、かも
さて、なぜこれが重要なのだろうか?それは、「全体」が形成された瞬間に漏れてしまう人たちがガンガン出てくるからだ。そして、「全体」は本来大事にしたかった「少数派」に対しての抑圧装置に成り果てる。「全体」の中に入って違和を感じないでいられている人たちはいい。しかしそれに馴染めなかった人たち、そもそも参加できなかった人たちはどうなる?そういう人たちを抜きにして、「全体」と化した運動は行進を続ける。どんどん振り落とされる人たちが出てくる。本当はそういうこと、一番したくなかったはずなのに…
書いていて改めて感じるが、「善きこと」は極めて難しい。最後まで貫き通そうとすると幾重にも障壁が出てきて、都合が悪くなって一つでも見てみぬふりをした途端にボロが出る。「あれは否定するのに、これは許すのか!?」世に言うダブルスタンダードというやつが発生する。さっきまで良いことを言ってた人たちは、その落差も相まって急激に信用を落とす。なんだ、外面は良くても結局こんなんなのかよ…と。逆に、それなりに悪い人たちはイメージの悪化というのを起こしにくかったりして、ちょっとやそっとボロが出てもなんか許されたりする。やりきれない世の中だがこの辺はもう本当にしかたなくて、じゃあ開き直って「善くあること」を諦めるか、諦めないか。この二択はかなりデカくて、俺はもっと頑張ってみたい。ひどく難しい道だけど。
話を元に戻して、ハッシュタグアクティビズムの話。SNSという人としてのにおい、肌感覚、身体感、呼吸、みたいなものが極めて感じにくいSNSという媒体において、こうした「お互いがお互いの見えてない部分を認め合いながら、クールに別個であり続け、それでいて集合する」というのがすごく難しいように思う。文字数制限とかも手伝って、本当に言いたいこと、生の場ならもっと話せたり顔色でわかったりすることが見えてこない。生の場なら本当にそれがわかるのか?と聞かれたらそれもまた難しい話で、そういうわけでもないのだけど、しかし間違いなくSNSの場では、捨象される細かな個々人の事情や思想の差異が、見えてこない。まるでそんなものないかのように感じてしまう。錯覚する。本来もっとノイズに満ちた個々人が、ツルッとしてしまう。これは想像以上に危険なことだと思うし、これを恐れて参加しない人たちもいるだろう。そして参加しなかった人たちは、「いなかったもの」として扱われてしまう。でもアカウントはあるから、「あいつは行動に参加しなかった!」というふうに思う人も出てきたりして、これではまるでハッシュタグが踏み絵のようではないか。
大体、そもそもSNSに参加していない人たちもしくは参加できない人たちもたくさんいる。そういう人たちを抜きにして、やってる人たちだけで勝手に言論の場を設定するような流れになることに対し、待ったの声がかからないのもおかしい。本当に公共圏なのか?いない人いっぱいいるけど?やはりSNSは過剰な力を持ってはいけない。
興味はあるが「ノれない人」が「ノれない人」のままで参加できる社会運動、というのが強度ある運動だと思っている。SNSを舞台としてしまうと、これが難しい。本当に一番避けたいはずの全体主義的なものに、良かれと思ってやったことの結果肉薄してしまうことへの自覚と恐怖、いくら便利でもこれはどうにかしないと思う勇気。そう言ったものが必要だ。自分はこれが絶対に必要だと主張していくと決めた。そういう人が居てほしいからだ。
⑨最後に、「発信」とはなんなのか?ということについて。
上にも書いたが、ハッシュタグが踏み絵的に機能してしまうことについて、自分には似たような苦い記憶がある。自分が初めて社会のこと、政治のことに興味を持ったのは2017年で(それまではノンポリであることがかっこいいと思っていた。誰に唆されたわけでもなく、なんとなく)、ちょうど共謀罪が成立する時だった。自分は生まれて初めて海外に滞在していて、そこから見たtwitterのタイムライン上で、自分の友人たちはただの一人も共謀罪のことについてコメントしていないように見えた。実際はどうだったかわからないが、そう見えた。それに対して自分は限りなく憤りを覚えてしまった。なぜこんなに大事なことについて誰も考えていないんだ…?と。自分もちょっと前まで全く興味がなかった話なのだから噴飯物なのだが、それでも怒ってしまった。そして生まれて初めて「そういうツイート」をした。「なぜ誰も共謀罪について呟いていないんだ!?」と。
見ていただいてわかるとおり色々問題はある話なのだけど、ここで重要なのは「考え、興味、関心を持っていること」と「SNSにそれを書いていること」が同一視されていることだ。この二つの因果関係については慎重になる必要がある。実際SNSに書いている場合、自分の意思で書いている限り関心を持っているといえるだろう。ではその逆は?書いていなければ考えていないのか?いや、そうではなかろう。
大体みんなどういうモチベーションでSNSをやっているのか、その存在が自明になるにつれよくわからなくなってくる。まあ、やってるっしょ、って。しかし本当は各々に異なった理由があるだろうし、統一されている必要など全くない。だから当然そこでの発言の方向が統一されている必要もないし、自分から見えているその人の発言だけが本当のことだというのはとんでもない錯覚だ。他にもいっぱい考えているだろうし、何を出して何を出さないかもその人の自由。SNSは仕事でやっているわけでもなければ公文書でもないし、本来ものすごく気楽で責任のないもののはずだ。しかし、こうした流れの中で暗黙の同調圧力や監視的眼差しは、無意識のうちにでも生まれてしまう。「あいつは発言しているか?」「発言していない!?関心がないのか!?ふざけるな!」これはおそらくかつての左翼思想の失敗例としてよく挙がる「内ゲバ」を生んだマインドと近いものがある。本来みんなで善くあろうとして、みんなで「こぼれ落ちてしまうもの」を守ろうとしていたはずなのに…。
もし今も自分が「なぜ貴様は呟いていないんだマインド」を継続していたとしたら、やはり今回もそういうことを言ったと思う。そしてもしそれに対して「君には見えてないと思うけど、俺実は個人的にブログに書いてるよ」と言う友人がいたとしたら、自分はとても後ろめたい気持ちになって苦虫ガリッ、だったと思う。この辺りから、「発信するとはなんなのか」という問題が湧いてくる。自分に対して発信されていないことを「不発信」および「不保持」だと考えてしまう回路はあまりに短絡だが、これ以上SNSが無闇なパワーを持って拡大すれば、この短絡はバッと広がるだろう。
考えを持つことや議論を試みることは大事だが、しかし、それが「SNSで意見を発信することこそが大事」という考えに移行することだけは絶対に避けないといけない。その思想があたかも公共圏と化したSNSという幻想を生み出し、無意識のうちに排除を行う。そして本来の「善さ」とのギャップは見えないところで開いていくばかりだ。もちろんどんな場面においても実際にダンマリである人はいる。無関心や不都合は、あまり尊敬できるものではないし実際そうした「何もしない」ものが壊しているものへの視点も忘れてはいけない。自分が今「善くない」と思っているものが本当にダメなのか、自分の短絡回路がそれをダメだと認識させているのかの判断はあまりに重要だ。この認識は、自分を監視カメラ化することからいくらか遠ざけてくれる。
その辺に折り合いをつけつつ、尚且つ問題へのシンパシーと付随する様々な、微細な考えを全部書いて何も隠匿しないために色々書いてみて、それを自分のホームページという媒体に掲載してみた。SNSを危ないものだと自覚しながらしかしSNSに参加して、その中での行動を再生産するという行為そのものがこの暴力装置を生きながらえさせているのだと思い、これからどうにかして、勇気を持ってSNSを捨てるということをしていくべきだと考えての行動第一弾だ。捨てる必要はないのでは…?という声もありそうだし実際平和利用について考えるべきだとも思うが、シリアスな情報がやり取りされる場となったSNSはもはやその存在内部に矛盾を孕んでしまっている。その中に居続けること自体がもはや暴力行為への加担でもある、と考えるようになってしまったからにはなんとかそれ抜きでやってみるということを実践していかないといけない。と思っている。そもそも自分はSNS的なコミュニケーションが特段好きだというわけでもないのにとんでもない時間をSNSに吸われてしまっている典型的なダメパターンで、そんなものの平和利用に考えるよりはその装置なしでやっていく方法を考える方がよほどテンションが上がる。それはとても大事なことだ。こうして書いてみて、この孤独なライティングは前述のSNS的「フィルター」から遠いところにあると感じた。もちろんこれはこれでダメなところがあるだろうし過信はできないが、フィルター問題においてはSNSよりもはるかにマシだと感じる。
大きな流れに迎合することなく独自に運動を行う人が(自分のこれは全然そんなレベルに達していないが)迫害されるような「リベラリズム」は、完全に間違っている。お前はグダグダグダグダと御託ばかり並べて中途半端な野郎だ、という批判があったらそれは本来そんなに簡潔でなく、グダグダグダグダとした思考が人の中に存在していることを否定しているから支持できない。本来わかりにくいものをわかりやすいものに回収しようとするならば、それは欺瞞だ。少数者の擁護を歌いながら自らもまた少数者への抑圧を行ってやまないそうした行為は、欺瞞と自己満足に満ちたただのマスターベーションに過ぎない。そうしたものを隠しながら行動すればすぐにバレるし、本来いいことを言っているはずの左派がどういうわけか敗北してしまうという歴史は、そうして紡がれてきたのではないか。これに関しては完全に勉強が必要なので、これから頑張ろうと思う。
善くあることは大変だ。寛容であることは大変だ。大変でも諦めたくないから、ガチンコでやるしかない。そしてガチンコの方向性を絶対に見誤らないこともまためちゃめちゃ大事だ。とにかく今は、気持ち良くなるために善くあろうとする瞬間を一つ一つ殺していく、ということをしないといけない。
どうしようもなく安全圏にいる立場より、自分なりの#blacklivesmatterを。